双柳の天王様 山車編 




 双柳山車




 双柳公民館




 双柳囃子連保存会の小若達 




「入間郡とその近郊の祭り囃子」
 飯能市の山車についても、全く無知なわたくしですから、ここは迷わず
「入間郡とその近郊の祭り囃子」サイトさんの情報を引用させていただきます。(管理人様宜しくお願い致します。)

 平成2年の春に製作が開始され
平成3年の6月12日に完成した。7月の大祭から早速、
曳き回しが行われた。(2代目完成にあたり、初代の山車は所沢市林の林囃子連に譲渡されたと
いう。)この新山車(屋台)の完成を機に、飯能まつりへの山車(屋台)を曳いての参加も
始まった。製作にあたったのは富山県井波町の宮大工、山崎健一氏。彫刻は西村一雪氏。
製作に際し、両氏を飯能に招き、参考になる山車を見てもらったという。川越の元町一丁目、
秩父夜祭の鉾、地元飯能の宮本町を見学した。
富山の方では山車に梶が付いていないので
宮本町の山車の梶を参考にしたといわれる。囃子台の柱の彫刻も宮本町を参考にしているが
子供が引っかかってケガをしないよう、また彫刻が欠けたりしないようにと、彫りを浅く
抑えた造りになっている。
木鼻 と呼ばれる部分には獅子と獏が配され、 脇障子 には
松竹梅。囃子台天井にも天井彫刻と、随所に彫刻が施され彫刻がないところを探す方が
難しいほどだ。製作が行われた富山県井波町は彫刻の町と呼ばれ、「井波彫刻」として
有名。特に欄間彫刻には強いのだという。なるほど通常、人目に触れる外側に彫刻が
施されるが楽屋側となる内側には彫刻は施されず平らな木の面のままである。ところが
この山車(屋台)は人目に触れない
楽屋側の欄間 にも彫刻が施されているのだ。欄間への
職人のこだわりが垣間見える。この山車(屋台)製作は、町単位ではなく一個人としての
職人に注文したため、井波町も町として埼玉から山車の注文が来たとアピールされることも
なかったという。しかし地元新聞にはとりあげられ、井波町で行われる彫刻祭りでは
建造途中ながらも、この双柳の山車(屋台)が展示されたという。井波町と飯能市との
交流にはいたらなかったのは残念だが建造途中ながらも双柳の山車(屋台)が彫刻祭りで
展示されたことで地元井波町の人たちに埼玉から山車の注文が来たという事実は伝わっ
たことであろう。さて疑問となるのが、何故、遠く富山県の井波町に注文したのであろ
うか?という点であるが、双柳の山車建設委員の方が自宅の欄間の製作をこの富山県
井波町に頼んだことがキッカケとなったという。そのことが縁となり山車(屋台)建造を
依頼するに至ったとの事だ。また依頼の際、龍や獅子、松竹梅など他所にも見られる彫刻
だけでなく双柳らしい彫刻も。ということになり、
「双柳」という地名の由来となった、
地元のお寺の柳の大木の下に二匹の狐が並んで座っていた(双は2匹の狐を表している
という。)という昔話の場面を
彫刻に再現したもの を作ることになった。
しかし、
あらかた発注が終わっており彫刻を取り付ける場所がない。そこで苦肉の策で楽屋の
両脇に付けられたのだという。因みに、この双柳が出来たのは西暦810年とされ、
西暦2010年が1200年目にあたるので大祭を行う予定という。現在、幟を立てて
いないが、これを機に幟の復活を!という思いがあるという。昔は上宿、中宿、下宿と
分かれており各宿ごとに幟を立てていたとされ、現在でも
中宿の幟 は現存しており、
大正時代のものであるという。神社の幟の受け(幟を立てる柱を地面で受け止める部分)も
現存しており、珍しいことに木製で祭礼ごとに境内に穴をあけ、地中に、この受けを
埋めて幟を立てたという(このような方式は同市、下畑でも聞くことができた。昔は
割と多かったのかもしれない)。さて、話を山車(屋台)のほうに戻そう。当初、鉾型の
山車をとも考えたが祭りの時期に雨が降ることが多いので後ろまで屋根のある屋台型のほうが
都合がいいとのことで屋台型となったという。取材時も小雨模様であったが、山車車庫より
出されていた。また廻り舞台にもしたかったが、夏祭りで曳き回しを行う大山街道が
道路の中央が盛り上がったカマボコ型をしており、廻り舞台にして舞台を横に向けた時に
倒れてしまったり、廻り舞台のスキマに指を挟んだりと事故が懸念されるとの配慮により
断念されたとの事であった。曳き回しといえば車輪には鉄輪が外れるのを防止するための
鋲が打たれていなかったのでお聞きしたところ、今のところ問題ないとの事。特殊な
二重鉄輪 の効果によるものなのであろうか。ただ、この二重鉄輪。後輪はいいのだが、
前輪は二重の為か、はたまた前輪の取り付け位置の為かは分からないが梶を取るのが
非常に重いとの事。重量もかなりのものであるし、横方向への幅もかなりあるので、
その一つ一つが要因となっているのかもしれない。この梶も当初は大きく切ると車台部分に
車輪が当たってしまい、傷つけてしまうので高さを継ぎ足して高くし、車台に当たらない
ように修正が加えられたという。(
写真 でみえる黒い部分がその継ぎ足した部分。当然、
後輪の方も継ぎ足して高さを揃えてある。)この前輪の上の車台裏側に作者の銘が
記されていたことも付記しておく。さて富山県で作られた、この山車(屋台)。どうやって
埼玉まで持って来たのか気になるところであるが、全部はバラさず、車台より上の部分は
組んだまま外し、油圧で車高の変化するトレーラーに載せ(屋根上の
鬼板 は外した)、陸路で
運搬したという。大変な作業であったと思われる。苦労の末、運ばれた山車(屋台)を
仕舞っておくには車庫が必須。この車庫にも大きな特徴が見られる。車庫の外壁一面に
祭りの様子が描かれているのである。これは絵心のある当時の囃子連の会長さんが
壁画用塗料で壁に直接描かれたものだそうだ。山車(屋台)が仕舞われていても、
あたかも山車(屋台)が曳きだされているかのような錯覚さえ覚えるほど生き生きと
描かれている。前面のシャッターは電動で開閉する最新のものだ。この山車(屋台)が
出来た当初は観音開きの扉であったが、扉を支える部分が重みに負けて危険な状態と
なったため、現在の電動シャッターとなった。山車の曳行時にお供として曳かれる荷茶屋は
山車完成と同時の平成3年に、地元の方から寄付された物という。殿様の乗る籠のような
形状をしており、地元では「御籠」と呼ばれている。飯能市の南高麗の大工が製作に
あたったという。双柳囃子連保存会の方は、今思えば、いい時に山車(屋台)を
作ることができたと、感慨深げであった。(平成17年取材時点)
2005.4.12up  「入間郡とその近郊の祭り囃子」サイトより




 製作にあたった富山県井波町の宮大工さんが25年ぶりにお越しになられてました。
記念に山車の前にて撮影させていただきました。
富山県井波町




 7.8組 各組ごとにお仮屋が設置されているようです




 六道交差点を横断 双柳地区は広いです。
双柳の町(大字)別土地面積
平成17年10月1日現在(単位:ha)は251.1haです。東京ドーム(4.7ha)ですから、
ありがちな表現では東京ドーム54個分となりますが・・・。




 
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