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 明治21年所澤神明社祭禮 世話人町内諸費簿(元町東)に重松の記録が残っていた。
 囃子連三日間給料・・・をどのように解釈するか?
 花車(山車)を曳いたであろう牛に関することも興味深い。




 大正時代の所澤神明社




 祭関連の興味深い内容




 ここにも重松の名が・・・現在の元町東所有の山車人形「日本武尊」に関しても




 湖に沈んだ幻の囃子連 勝楽寺囃子連



湖底に沈んだ山口村 狭山湖
 湖底に沈んだ山口村
狭山湖は、正式な名称を山口貯水池は。
昭和7年に作られた人造湖で、丘陵南の村山貯水池(多摩湖)とともに東京市(当時)の上水道用の貯水池。
工事によって、山口村(当時)大字勝楽寺しょうらくじの大部分と大字上山口の一部が湖底に沈むことになり、
300名近い人々が住みなれた土地を離れることになりました。
特に大字勝楽寺しょうらくじは、かつては勝楽寺しょうらくじ村
というひとつの村で、丘陵からの水に恵まれ、農業や織物生産で栄えた古い村でした。




 大笠から大ぬかりを通って武蔵村山・横田に通ずる道 この道を重松は歩いたはず。この先の中藤にも伝承した記録あり




 現在観光地となっている狭山湖(山口貯水池)の地域は、以前は山口村大字勝楽寺村と大字上山口といい、
勝楽寺は、刈谷戸、神門、北入、中笠と大笠、上山口の堀口と、六つの集落により構成されていました。
狭山丘陵の谷の奥まった所に広がり、自然に満ち、所沢から青梅、八王子へ通じる道路が貫いていました。
明治時代、所沢の織物が隆盛をみた頃はこの地域の村人達が中心となり「所沢絣:飛白」を生産していました。
しかしこの地域は昭和7年、増え続ける東京市民の水がめとして建設された貯水池の湖底に没してしまいました。
湖底に沈むことになり、そこに住む人々は移転を余儀なくされました。
移転した数は282戸、家族全体の人数は1720余名、大部分の190戸が農業で、次が織物業20戸でした。
所沢絣の衰退の要因の一つにあげられます。




 強引な仮説 「重松はこの道も歩いた!?」 山口地区には三つの囃子連があり重松が立ち寄る可能性大である。
多摩川を渡るには牛浜の渡しを利用したのか?牛浜新田の森田製糸所にも立ち寄ったであろう。そして平井志茂町のお宅と・・・。
現代ならばカーナビに各点を入力し最短距離を設定しますね。




 
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