2008.3.2
 飯祭連のおまつり塾ちょっときいてみんべぇ〜
 テーマ「若狭流と大橋流の違い」
 
飯能市原町会館
 原町囃子連 (小田原囃子若狭流)の演奏前半

 明治2年(1869)川越市新宿町の飴売りのコウさん(通称アメコウ)に、
広小路の鹿島屋(現双木マンション)のところで町内の若者が口伝え
で小田原囃子若狭流若囃子として伝承されたのが始まりである。
当時は主に十五夜の日にお囃子を行っていた。この囃子は明治・
大正時代には本郷・河原町や越生町黒岩等に伝承されながら受け継がれ、
戦前には毎年7月に行われていた坂戸市の坂戸神社の例大祭で
坂戸一丁目の山車に乗っていた。
 戦後昭和30年以降にテレビ出演2回、海外遠征1回など数多く出演したり、
その後の伝承先として前田・中山・入間市南峰(現桂囃子連)・新光・越生町
の河原町があり現在の基礎を作った。なお師匠である川越市新宿囃子連及び
小田原囃子については現在調査中だが、平成5年三月発行の小田原市
郷土文化館研究報告No.29相州の祭り囃子「小田原囃子」(浜田和政氏著)
の文中に伝承先として『埼玉県の川越市、入間市、狭山市の一部、飯能市内
の原町ほか幾つかの地域で小田原囃子若狭流と称する祭り囃子が古くから
伝承されている。
 祇園囃子は昭和5年(1930)に元加治村野田(現入間市)の囃子連を師匠
として習得している。
  飯祭連HPより引用




 原町囃子連 (小田原囃子若狭流)の演奏後半




 弐丁目親和会 (神田大橋流)の演奏前半

 
記録によると、大正御大典(4年、1915)の時にはまだまとまった
囃子連はなく、下畑の囃子連を山車とともに招き、町内会は
『桃太郎の鬼退治』の仮装で山車を曳き、祭りに参加したという。
大正9年(1920)山車取得の際も、三丁目共鳴会・原町囃子連
の協力を仰いでいる。
 その後町内にも囃子連をという気運が高まり、青木梅助師を
中心とする下畑囃子連を師匠に二丁目での囃子連が始まった。
昭和御大典(3年,1928)では入間市新久囃子連とともに山車を
奉曳している。高麗横丁初野理髪店脇にあった地蔵尊様の縁日
(毎月16日)、三丁目三座稲荷神社等に囃子を奉納していたが、
紀元二千六百年祝典(1940)以降戦争体制が厳しくなり、
終戦(1945)まで中断を余儀なくする。
 戦後、天王様(7月)、お諏訪様(9月)の祭礼を中心に活動を
行いながら、大橋流伝承にもつとめ、戦前(昭和5年頃)伝えている
越生町・本町囃子連(親和会)に再伝授したり、川越市・
西小仙波囃子連(竹生会)にも新たに伝えている。
  飯祭連HPより引用




 弐丁目親和会 (神田大橋流)の演奏後半




 講師お二人によるお囃子・飯能祭り・若狭流、大橋流について詳しく解説が行われた。
 飯祭連二代目会長(弐丁目親和会所属 O氏)左側・飯祭連三代目会長(原町囃子連所属 M氏)右側




 飯祭連皆様お疲れ様でした。
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